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 夕方、酔った父親から電話があった。
 雨が降り出したから、傘を持って迎えに来いと言う。
 近所の飲み屋にいるそうだ。
 朝早く仕事に行くといって出て行ったはずなのに、今日もまた行かなかったのかもしれない。
 いつもの通り美弥を隣の家に預かってもらい、高耶は傘を持って、家を出た。
 飲み屋に着いてみると父親は妙に上機嫌で、途中立ち寄ったコンビニでお菓子を買ってくれたりもした。
 けれどそれも一時のことで、家に戻って美弥がいないことがわかると、やっぱりまた、荒れだした。
 少し前までは、何回殴られたとかどこをどう殴られたとか覚えていたものだけど、今では殴られることが当たり前すぎてもう数えることもしなくなった。痛いとか悔しいとか悲しいとか、そういう感情を出来る限り遮断してやり過ごすしかないのだ。
 それでもそろそろ身の危険を感じ始めて、小雨の中、高耶は家を飛び出した。
 父親は、外までは追ってこない。
 人前で手をあげる勇気がないからだ。




 気がつくと、先程父親と立寄ったコンビニへとやってきていた。
 おでんのいい匂いがしてきて、夕飯がまだだったことに気付く。
 ポケット中には買ってもらったお菓子がそのまま残っていたけれど、とても食べる気にはなれなかった。
(いつも、裏切られる)
 悲しみに対する免疫はついたけど、喜びに対する免疫はいつまで経っても身につかない。
 ただ殴るだけの父親なら、憎むことも出来るのだ。
 不意に何かを褒められたり、父親らしい優しさを見せられると、それが気まぐれだとわかっていてもついつい心への進入を許してしまう。
(早く大人になって、感情をコントロールできるようになりたい)
 ポケットのお菓子を握り締めると、コンビニに背を向けて歩き出した。




 高耶が歩き出して十数メートルも行ったところで、
   どしんっ
 背中に衝撃を感じた。
 後ろから走ってきた男が、ぶつかってそのまま追い越していったのだ。
 男と言っても高耶より少し歳が上かという程度の子供で、高耶のとよく似た黒いダウンジャケットを着込んでいる。
「わりぃっ!」
 そう言いながら、彼は足をとめることなく走って行ってしまった。
 高耶は特に気にせずに、再び歩き出す。
 ところが───
「きみ、ちょっと来てもらおうか」
 いきなり腕を掴まれて、強引に振り向かされた。
「何だよ………っ」
 よく見ると、男はコンビニの制服を着ている。
 嫌な予感がして、高耶は男を睨み付けた。




「で、名前と親御さんの連絡先は」
「……………」
「いい?万引きは犯罪なんだよ。通報されたいの?」
「………だから、やってねぇって言ってんだろ」
「じゃあっ、このお菓子はなんなのっ!」
 ポケットに入っていたお菓子を前に、先程からずっとこの繰り返し。
 堂々巡りだ。
「これは買ったんだって」
「でも、レシートがないんでしょ」
「親父が持ってるから」
「じゃあ、早くお父さんを呼ぼうよ」
「……………」
 呼べる訳がない。あんな酔っ払い。
 途方に暮れた高耶の脳裏に、ひとりの男の顔が浮かんだ。
 何かあればと渡された電話番号の書かれた紙は、ずっと持ち歩いていたから、もう覚えてしまっている。
 ためらいが無い訳ではなかったけれど、久し振りに話がしたいという想いもあって、
「………わかったよ」
 高耶は、その番号を店員に告げた。




 男は、両親の離婚の際に担当だった家裁の調査官だった。
 複雑な調停だった。
 けれど彼は、両親はもちろん高耶と美弥も納得の行く形で、と根気強く話を進めてくれた。
 高耶にとって、今や一番信頼できる存在かもしれない。
 店員が電話をかけるとすぐに駆けつけてくれた男は、顔を見るなり大丈夫だと頷いてくれた。
「あんたがお父さん?」
 舐めるような目つきの店員に、男は名刺を渡す。
「さ、裁判所?なんで……」
 うろたえる店員を、男はかなり強気で責めた。
 万引きをした証拠はあるのか、高耶を拘束する際に違法行為はなかったか、高耶が無実だとわかったとき、それなりの対応をさせてもらうから、覚悟をしておけ、と。
 彼が到着してから約10分。
 あっという間に、高耶は開放された。




 店を出ると、雨はすっかり止んでいた。
「大丈夫ですか?」
 男は心配そうに顔を覗き込んでくる。
「別に。こんなことで傷ついたりしない」
「そうやって、感情を抑えつけるのはよくありませんよ」
 肩に手を置かれて、そのあたたかさが心に染み入ってきた。
 やっぱり、優しさは拒めない。
「………早く大人になりたい」
 大人になればきっと、男の手に縋らずともよくなるはずだ。
「強くなりたい」
 俯く高耶に、男は優しく言った。
「早く大人になる必要なんて、ありません」
 それに、歳を取ったって何も変わりませんから、と言う。
「もし大人が強く見えるとしたら、それは単なる強がりですよ」
 男は微笑っている。
(そんなことない)
 少なくとも目の前の男は違う、と高耶には思えた。




「とりあえず、帰りましょうか」
 男はそう言うと、停めてあった車を示す。
 それに対して、高耶は首を振った。
「………帰るとこなんてない」
 男は困ったような顔になる。
「家があるでしょう?」
「あんなの、家とは呼べない。オレにとっては牢獄だ」
 例えば、親戚の家だろうと養護施設だろうと、高耶にとっては同じことだ。
 居たくもないのに、居なくてはならない場所。
 この世の中に、高耶にとって居心地のいい場所なんて、どこにもない。
 路上で寝泊りしたほうが、ずっと自由だと思う。
「高耶さん」
 男は再び、顔を覗き込んできた。




 今は、つらいかもしれない。
 あなたは翼を持った鳥と同じだから。
 窮屈な鳥籠に入れられてるように思うかもしれない。
 でもいつか、必ず羽ばたいていけるから。
 自分の好きな場所に、好きなように。

「私の役目はその翼を守ることです」
 そう男は言った。
「……キザだな」
「そうですか?」
 気障だけど、高耶の顔には笑みが浮かんだ。
「………さんきゅーな」
 返事の代わりに、背中をぽんと叩かれた。

 今は冷たい鉄格子に囲まれた鳥籠で、凍えていなければならないけど。
 いつか、あたたかくて心地のよい、より太陽に近い場所へ。
 自分だけの、まだ見ぬ楽園。
 そこはいったいどんな場所だろう。
 高耶は高い空を見上げて、その場所に想いを馳せた。




≫≫ 後編
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