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「失礼します」
 直江は一礼して、ビルの最上階にある社長室を後にした。
 じきに大学を卒業して、春からはこの企業で働くことが決まっている直江だが、今日はこの社長室の革張りの椅子に座っている男に、話があってやってきたのだ。
 社長と内定者としてではなく、父と息子として。
 けれど、いつもながら父親は、自分の話などには全く聞く耳を持たなかった。
 大きくつきたいため息をぐっと飲み込んで、エレベーターに乗り込む。
 もともと殆ど会話のない親子関係ではあったが、大学進学と同時に家を出てしまってからは、ますます関係が疎遠になっていた。
 今更、"自分は弁護士になりたい"と言ってみたところで、取り合ってもらえないのはわかっていたはずだ。
 けれどこれは、小さい頃からの夢だったのだ。
 孤立無援。そんな言葉が、今の自分にはぴったりだと思う。
 自分の思う通りに動こうとすれば、周囲の人間が足枷となって身動きが取れない。
 もがけばもがくほどにそれを痛感し、痛感するほどに抜け出したい、と思った。




 今日、この後の予定は特にない。
 ということは、あの部屋に戻らなければならない。
 まるでホテルの一室のような内装のあの部屋で、彼女はきっと当たり前の顔をして待っているだろう。
 恋人のことを考えているというのに、直江の心は曇天のようだ。
 彼女には、大学に入ったばかりの頃、親に引き合わされた。
 会食とは名ばかりのお見合いの場だった。
 一番気に入らないのは、そのことを然したる疑問も持たずに受け入れた当時の自分。
 何故自らスネア・トラップに足を入れるような真似をしたのだろう。
 気がつくと、もう抜け出すことは不可能だった。
 今の部屋も、夜景が気に入ったからと彼女が選んだ。
 大学を卒業して、家業を継ぎ、結婚して、家庭を持つ。
 自分の行く先は、1時間先も、10年先も、他人に支配されている。

「え?お父様と話したの?」
 馬鹿なことを……という顔で、彼女は直江を見た。
「聞いては貰えなかったけどな」
「そう」
 今度は明らかに、ほっとした表情を浮かべた。
「いいじゃない。弁護士なんてやるより、会社を継いだほうがずっといいわよ」
 何がおかしいのか、笑ってそんなことを言ってくる。
 どうして"ずっといい"などと言えるのだろう。
 自分が何のために司法試験を受けたと思っているのか。
 わざわざ在学中、無茶を承知で受けたのは、そうしないと誰にも認めてもらえないからだ。
 自分の夢を。
 しかし、試験を受け何とか合格したところで、状況は何も変わらなかった。
 他人からは恵まれていると言われることもある。
 けれど直江は、これほどうまくいかない人生は他にないだろうと思っていた。




「ちょっと、出てくる」
「え?どこに?」
 彼女が、自分も行くと言い出す前に家を飛び出し、車で繁華街へとやってきた。
 直江はここが好きだった。
 騒がしい通りを歩いていると、まるで自分が罠から解かれたように感じる。
 なんのしがらみもない、自由な人生。
 あてもなくふらふらと歩いていると、後ろから声をかけられた。
 振り返って、息をのむ。
───あなたは……っ」
 それは、十数年ぶりの再会だった。

 いま思うと、あれはまるで恋のようだった。
 当時の父親の顧問弁護士でもあり友人でもあった彼は、しょっちゅう家にやってきていた。
 その姿を見れば胸がときめいたし、彼と話すために父親との用事が終わるのを何時間でも待った。
 彼の傍にいれば、そこはまるで天国のようだった。
 事件や裁判の話を聞きたいのだと言いながら、ただ彼と一緒にいたかっただけのような気もする。
 彼の姿を見つめながら、彼のようになりたいと思った。
 そう、自分の夢の発端は全て彼だった。
 彼に憧れたからこそ、弁護士になろうと思ったのだ。




(やつれた……)
 一目見て、そう思った。
 人が変わるというのは、こういうことだろう。
 面影はあったが、昔のような黒々とした髪や生き生きとした表情は、そこにはなかった。
 ただ眼の輝きだけは、変わらないどころか更に増しているように思えた。
 言葉を失っている直江に、病気なのだ、とその人は言った。
 もうずっと病んでいるのだと。
「おまえはずいぶん、立派になった」
 懐かしい声を聞いて、直江はたまらなくなった。
(この人の元で、この人を支えたい)
 彼が慈善事業に近いことをやっているのは、風の噂で知っていた。
 直江は必死で頼み込んだ。
 どんな小さな仕事だってやる。給料など期待できないこともわかっている。
 だから、傍に置かせて欲しい、と。
 けれど彼は、頑なに拒んだ。
「父上が許すと思ってるのか?」
 父なんかには、もう許されなくてもいい。
 直江の決意は固かった。




 家へと戻った直江は、それでも一週間、父親の元に通い続けた。
 それは、直江にとってのけじめのようなものだった。
 説得は説得にならず、一方的に話を続けていた直江が最後の最後、別れを告げたときですら、父親は振り向きもしなかった。
 が。
「何言ってるの……?」
 さすがに彼女は、別れの言葉に振り向いた。
「弁護士になることにした」
「ちょっと待ってよ……っ!何よ……それ……っ!」
 元から話し合う気などない直江は、既に荷物もまとめてあった。
 冷たいかもしれないが、もう心は決まっている。
 背後に彼女の悲鳴を聞きながら、直江は家を、自らの枷となるものを捨てた。
(これで自由だ)
 けれど運命の皮肉さを、直江は思い知ることとなる。
 直江が、彼から奪うようにしてもらった名刺を頼りに、彼の事務所へとやってくると、そこにいた女性が信じられないことを告げてきた。
「え……?倒れた?」
 彼が倒れて、病院へ運ばれたという。
 血の気の引いた青い顔で直江が病院へ駆けつけると。
 既に彼は、息を引き取った後だった。




(何なのだろう、自分は)
(どういう意味があって生まれ、何故ここで息をしているのだろう)
「直江君?」
 病院の廊下で、崩れ落ちるようにして座り込んでいた直江に、知らない男が声をかけてきた。
 その人は、色部と名乗った。
 彼の長年の友人で、最期も看取ったという。
「生きているのが不思議なくらいだったんだ」
 彼の病は、それほどひどいものだったらしい。
「君に伝えておきたいことがある」
 まだ、彼の死を受け入れられずにいる直江にしてみれば、遺言と呼ぶにはまだ早い彼の言葉を、色部は言った。

 おまえは自分がいなくとも大丈夫。
 ひとりで道を歩んでいけるはずだ。
 けれど夢を追いすぎて、その他のものを見失うな。
 決して、自分の様になってはいけない。

「彼は天涯孤独だったからな。家族を大事にしろと言いたかったんだろう」
 色部はそう言ったが、自分は家族といたほうが孤独なのだ。
「彼のようになりたかったんです。人のために力を尽くせるひとに」
 本当は、違う。
 人の為でなく、彼の為になりたかった。
 彼の隣にいるとき、自分は天にも登る気持ちで、孤独であることを忘れられた。
 彼は、自分を孤独から救ってくれる唯一の人だった。
「ヒーローというのは、端からみるほどいいものじゃないよ」
 色部は言う。彼は孤独という病から逃れるために、人の為に力を尽くすしかなかったのだと。
 それでも病からは逃れられなかったのだと。
 それを聞いて、気付いてしまった。
 彼自身は自分といたって、孤独を忘れることはなかったのだ。
 自分が彼の傍にいたかったのは、全ては自分のため。
 彼もきっと、それをわかっていたのだろう。
 心を、撃ち抜かれる想いがした。




 自分本位を思い知らされて、行くあてもない直江は結局、失意のまま家に戻るしかなかった。
 見慣れた玄関に入ると、彼女の靴と見知らぬ男の靴が並んでいる。
 物音に誘われるまま寝室の扉を開けると、ベッドの上には裸の彼女と、腹違いの弟が抱き合っていた。
 こちらに気付いた彼女が、悲鳴をあげる。
 唖然とする直江に、弟はとてもおかしげに笑って見せた。
「どうして帰ってきたの」
 自分の衣服を掴むと、こう言いながら去っていった。
「ここに兄さんの居場所はないって、まだ気付かないの?」
 扉が閉まり、
「彼のほうが、私を大事にしてくれるのよ」
 小さな声で言い訳を口にする彼女に、直江は侮蔑の表情を浮かべる。
「社長夫人になりたいだけなんだろう?」
 言ったとたん、彼女の平手が直江の頬にとんだ。
「じゃあ、あなたは私の何になるつもりだったの?
私のことなんて何も考えてなかったくせに。
弁護士でも医者でも好きなものになればいい。
けど、断言できる。あなたはずっと、独りよ。
誰かにとっての何かにはなれないわ」
 返す言葉もなく立ち尽くす直江を置いて、やはり彼女も、弟と同じように去っていった。




 直江は地上に立って、そびえ立つビルを見上げていた。
 最上階の社長室があるあたり。
 あそこでいつものように椅子に座る男は、もし自分が戻りたいといっても、やっぱり振り向きもしないのだろう。
 結局自分は、父親の用意した器に収まって、窮屈がることくらいしかできないのだ。
 あてがわれた鳥籠の中から、孤独に、遠い空を見上げる鳥のように。
 父親はきっと、それをとうにわかっていたのだ。
(誰かの何かになんて、なりたくはない)
 友達にも家族にも恋人にも夫にも、息子にも。
 あの孤独に逝ったひとを想えば、独りも怖くはない。
 籠の中で、それなりに過ごす方法もある。

 高い高いビルの、その向こうには、遠い遠い空。
 遠すぎて、その白い色が空の色なのか雲の色なのかもわからない。
 鳥籠の鳥はもう、空を飛びたいとも思わない。
 羽を広げることもなく天を見上げながら、その一生を狭い鳥籠の中で過ごすのだ。




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