とある地方の裁判所。
今日は、窃盗罪に問われている少年の裁判が予定されている。
その被告人の少年と母親が並んで座って待っていると、スーツ姿の青年がやってきた。
先に気付いたのは少年のほうだ。
「あんた……」
青年が少年に頷き返すと、母親も気付いて慌てて立ちあがった。
「仰木さん」
おおげさなくらい大きくお辞儀をする。
「退院されたんですね、よかった」
「あれから、この子にいろいろと聞きました。本当にお世話になったようで」
「いえ、僕は何もしてあげることができなくて……」
「そんなことありません。仰木さんだけはどんなときも味方でいてくれたんだってこの子、話してましたから」
それを聞いて、少年は気まずそうに下を向く。
「本当にありがたく思っております。あの、弁護士さんまで紹介して頂いて……」
ああ、と青年は頷いた。
「色部さんはこういった裁判をよく扱われてますから、必ず納得のいく結果になると思いますよ」
「ええ、この子のことをとてもよく考えてくださって、費用のことも相談に乗ってくださいましたし……」
その後も、母親の仕事のことから少年の今後の話まで、青年と母親の会話はしばらく続いた。
青年──こと仰木高耶は今、とある地方の家庭裁判所で少年係の調査官として勤務していた。
"あの日"からはもう、かなりの月日が経っている。
けれど高耶は未だ、直江に連絡をすることが出来ずにいた。
親子と別れた高耶が建物の出口へ向かっていると、廊下の向こうから初老の男性がやってきて声をかけられた。
「やあ」
「色部さん」
手を上げた色部に、高耶は頭を下げる。
「今回はいろいろとお世話になります」
「いやいや、やめてくれないか」
にこやかに頭を上げさせた色部は、
「それよりちょっと、時間あるかな」
目配せをしながらそう言った。
「ええ、大丈夫ですが……」
「君に会わせたい男がいてな、もうすぐ来ると思うんだが……」
色部は引き返す形となって、ふたりが並んで歩き出すと、
「ああ、来た来た」
色部が前方を指差した。
その方向を見て、高耶は唖然となる。
相手の男も、こちらへ向かっていた足をぴたりと止めた。
「な……おえ……」
男の名を呼んだその声は、驚きのあまり掠れていた。
しばらく高耶を凝視していた直江は、やがて息を吐くと、
「色部さん」
色部に向かって、非難するように言った。
「急に呼び出したりするから、おかしいと思ったんです」
高耶の方は見ず、話しかけることもしない。
「なんで……」
高耶は動くことができないまま、それだけを呟いた。
「何か会えない事情があるのはわかるがな、いつまでもこのままではいられないだろう?」
「いいえ。私から話すことは何もない」
直江は表情を全く変えないまま、
「失礼します」
一礼すると、高耶が声をかける間もなく行ってしまった。
「あんな態度だがな、いつも君のことを根掘り葉掘り聞いてくるんだ」
色部が苦笑いの顔でフォローを入れる。
「直接、話してやって欲しい」
その言葉に促されて、高耶は直江のあとを追うために走り出した。
「直江……ッ!」
建物を出たところでやっと追いついた高耶は、息を切らしながら直江を呼び止める。
立ち止まった直江は、観念したように振り返った。
「あなたが連絡をくれるまでは、絶対に会わないつもりだったんですが」
やっと、その顔に表情が生まれた。
「立派な調査官になられたようですね」
ふたりの視線が結ばれて、直江の口元には笑みが浮かぶ。
「色部さんから、色々と聞いてはいました」
眼の前の直江は、以前と何も変わっていない。
「……まだ新米で、うまくいかないことばかりだ」
思い描いていたままの直江だ。
「おまえこそ、それ」
直江の胸の紀章を指差しながら、高耶は時間が昔に戻っていくような感覚を覚えていた。
「ええ。あなたが夢を思い出させてくれたおかげです」
「なお───」
「いいんです。何も言わなくて」
直江は視線を下に落としながら、首を横に振った。
「あなたがどんなつもりでいようと、例えわずかな望みすらなくとも、私は待ちます。十年でも二十年でも、もし永劫の命があるというのならば永劫────」
「直江。違うんだ」
聞いてもらいたくて、高耶は一歩前へ出た。
「待たなくていい」
「………?」
「今日色部さんに担当してもらうあいつな、オレが独り立ちして初めて担当したやつなんだ。あいつとは本当にいろいろあって……ちゃんと更正するまで見届けようと思ってた」
懸命に喋る高耶に、直江は静かに耳を貸している。
「今回の裁判が終わればきっと完璧に立ち直れる。いや、もうたぶん立ち直ってる」
高耶は笑顔になって話す。
「何より家族がちゃんとそばにいるから、オレの出る幕もないしな。………あいつが一人前になれれば、オレも一人前になれる気がしてた。重ねてたんだ、あいつに。自分を……」
高耶の顔から笑みが消えた。
「ずっとおまえに連絡したいと思ってた。でも、出来なかったんだ」
「高耶さん」
「連れて行ってもらうのが、嫌だったから」
天国に、と言うと、直江ははっとした顔をした。
「おまえに連れて行ってもらうんじゃなくて」
高耶は直江を見る眼に力を込めた。
「一緒に行くんだ」
天上の夢のような世界ではなく、この地上を、現実を、楽園とするために。
ともに歩いていくのだ。
「高耶さん……」
やっと今日、その道を歩いてゆける自信がついた。
自分なら、そして直江なら、必ずその道をゆける。
しっかりと、歩いてゆける。
「ついて来いよ」
「……高耶さんっ」
直江が堪えきれないといった感じで歩み寄ってくる。
遅れるなよ、と付け足す前に、抱き寄せられて唇を塞がれた。
今日は、窃盗罪に問われている少年の裁判が予定されている。
その被告人の少年と母親が並んで座って待っていると、スーツ姿の青年がやってきた。
先に気付いたのは少年のほうだ。
「あんた……」
青年が少年に頷き返すと、母親も気付いて慌てて立ちあがった。
「仰木さん」
おおげさなくらい大きくお辞儀をする。
「退院されたんですね、よかった」
「あれから、この子にいろいろと聞きました。本当にお世話になったようで」
「いえ、僕は何もしてあげることができなくて……」
「そんなことありません。仰木さんだけはどんなときも味方でいてくれたんだってこの子、話してましたから」
それを聞いて、少年は気まずそうに下を向く。
「本当にありがたく思っております。あの、弁護士さんまで紹介して頂いて……」
ああ、と青年は頷いた。
「色部さんはこういった裁判をよく扱われてますから、必ず納得のいく結果になると思いますよ」
「ええ、この子のことをとてもよく考えてくださって、費用のことも相談に乗ってくださいましたし……」
その後も、母親の仕事のことから少年の今後の話まで、青年と母親の会話はしばらく続いた。
青年──こと仰木高耶は今、とある地方の家庭裁判所で少年係の調査官として勤務していた。
"あの日"からはもう、かなりの月日が経っている。
けれど高耶は未だ、直江に連絡をすることが出来ずにいた。
親子と別れた高耶が建物の出口へ向かっていると、廊下の向こうから初老の男性がやってきて声をかけられた。
「やあ」
「色部さん」
手を上げた色部に、高耶は頭を下げる。
「今回はいろいろとお世話になります」
「いやいや、やめてくれないか」
にこやかに頭を上げさせた色部は、
「それよりちょっと、時間あるかな」
目配せをしながらそう言った。
「ええ、大丈夫ですが……」
「君に会わせたい男がいてな、もうすぐ来ると思うんだが……」
色部は引き返す形となって、ふたりが並んで歩き出すと、
「ああ、来た来た」
色部が前方を指差した。
その方向を見て、高耶は唖然となる。
相手の男も、こちらへ向かっていた足をぴたりと止めた。
「な……おえ……」
男の名を呼んだその声は、驚きのあまり掠れていた。
しばらく高耶を凝視していた直江は、やがて息を吐くと、
「色部さん」
色部に向かって、非難するように言った。
「急に呼び出したりするから、おかしいと思ったんです」
高耶の方は見ず、話しかけることもしない。
「なんで……」
高耶は動くことができないまま、それだけを呟いた。
「何か会えない事情があるのはわかるがな、いつまでもこのままではいられないだろう?」
「いいえ。私から話すことは何もない」
直江は表情を全く変えないまま、
「失礼します」
一礼すると、高耶が声をかける間もなく行ってしまった。
「あんな態度だがな、いつも君のことを根掘り葉掘り聞いてくるんだ」
色部が苦笑いの顔でフォローを入れる。
「直接、話してやって欲しい」
その言葉に促されて、高耶は直江のあとを追うために走り出した。
「直江……ッ!」
建物を出たところでやっと追いついた高耶は、息を切らしながら直江を呼び止める。
立ち止まった直江は、観念したように振り返った。
「あなたが連絡をくれるまでは、絶対に会わないつもりだったんですが」
やっと、その顔に表情が生まれた。
「立派な調査官になられたようですね」
ふたりの視線が結ばれて、直江の口元には笑みが浮かぶ。
「色部さんから、色々と聞いてはいました」
眼の前の直江は、以前と何も変わっていない。
「……まだ新米で、うまくいかないことばかりだ」
思い描いていたままの直江だ。
「おまえこそ、それ」
直江の胸の紀章を指差しながら、高耶は時間が昔に戻っていくような感覚を覚えていた。
「ええ。あなたが夢を思い出させてくれたおかげです」
「なお───」
「いいんです。何も言わなくて」
直江は視線を下に落としながら、首を横に振った。
「あなたがどんなつもりでいようと、例えわずかな望みすらなくとも、私は待ちます。十年でも二十年でも、もし永劫の命があるというのならば永劫────」
「直江。違うんだ」
聞いてもらいたくて、高耶は一歩前へ出た。
「待たなくていい」
「………?」
「今日色部さんに担当してもらうあいつな、オレが独り立ちして初めて担当したやつなんだ。あいつとは本当にいろいろあって……ちゃんと更正するまで見届けようと思ってた」
懸命に喋る高耶に、直江は静かに耳を貸している。
「今回の裁判が終わればきっと完璧に立ち直れる。いや、もうたぶん立ち直ってる」
高耶は笑顔になって話す。
「何より家族がちゃんとそばにいるから、オレの出る幕もないしな。………あいつが一人前になれれば、オレも一人前になれる気がしてた。重ねてたんだ、あいつに。自分を……」
高耶の顔から笑みが消えた。
「ずっとおまえに連絡したいと思ってた。でも、出来なかったんだ」
「高耶さん」
「連れて行ってもらうのが、嫌だったから」
天国に、と言うと、直江ははっとした顔をした。
「おまえに連れて行ってもらうんじゃなくて」
高耶は直江を見る眼に力を込めた。
「一緒に行くんだ」
天上の夢のような世界ではなく、この地上を、現実を、楽園とするために。
ともに歩いていくのだ。
「高耶さん……」
やっと今日、その道を歩いてゆける自信がついた。
自分なら、そして直江なら、必ずその道をゆける。
しっかりと、歩いてゆける。
「ついて来いよ」
「……高耶さんっ」
直江が堪えきれないといった感じで歩み寄ってくる。
遅れるなよ、と付け足す前に、抱き寄せられて唇を塞がれた。
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「失礼します」
直江は一礼して、ビルの最上階にある社長室を後にした。
じきに大学を卒業して、春からはこの企業で働くことが決まっている直江だが、今日はこの社長室の革張りの椅子に座っている男に、話があってやってきたのだ。
社長と内定者としてではなく、父と息子として。
けれど、いつもながら父親は、自分の話などには全く聞く耳を持たなかった。
大きくつきたいため息をぐっと飲み込んで、エレベーターに乗り込む。
もともと殆ど会話のない親子関係ではあったが、大学進学と同時に家を出てしまってからは、ますます関係が疎遠になっていた。
今更、"自分は弁護士になりたい"と言ってみたところで、取り合ってもらえないのはわかっていたはずだ。
けれどこれは、小さい頃からの夢だったのだ。
孤立無援。そんな言葉が、今の自分にはぴったりだと思う。
自分の思う通りに動こうとすれば、周囲の人間が足枷となって身動きが取れない。
もがけばもがくほどにそれを痛感し、痛感するほどに抜け出したい、と思った。
今日、この後の予定は特にない。
ということは、あの部屋に戻らなければならない。
まるでホテルの一室のような内装のあの部屋で、彼女はきっと当たり前の顔をして待っているだろう。
恋人のことを考えているというのに、直江の心は曇天のようだ。
彼女には、大学に入ったばかりの頃、親に引き合わされた。
会食とは名ばかりのお見合いの場だった。
一番気に入らないのは、そのことを然したる疑問も持たずに受け入れた当時の自分。
何故自らスネア・トラップに足を入れるような真似をしたのだろう。
気がつくと、もう抜け出すことは不可能だった。
今の部屋も、夜景が気に入ったからと彼女が選んだ。
大学を卒業して、家業を継ぎ、結婚して、家庭を持つ。
自分の行く先は、1時間先も、10年先も、他人に支配されている。
「え?お父様と話したの?」
馬鹿なことを……という顔で、彼女は直江を見た。
「聞いては貰えなかったけどな」
「そう」
今度は明らかに、ほっとした表情を浮かべた。
「いいじゃない。弁護士なんてやるより、会社を継いだほうがずっといいわよ」
何がおかしいのか、笑ってそんなことを言ってくる。
どうして"ずっといい"などと言えるのだろう。
自分が何のために司法試験を受けたと思っているのか。
わざわざ在学中、無茶を承知で受けたのは、そうしないと誰にも認めてもらえないからだ。
自分の夢を。
しかし、試験を受け何とか合格したところで、状況は何も変わらなかった。
他人からは恵まれていると言われることもある。
けれど直江は、これほどうまくいかない人生は他にないだろうと思っていた。
「ちょっと、出てくる」
「え?どこに?」
彼女が、自分も行くと言い出す前に家を飛び出し、車で繁華街へとやってきた。
直江はここが好きだった。
騒がしい通りを歩いていると、まるで自分が罠から解かれたように感じる。
なんのしがらみもない、自由な人生。
あてもなくふらふらと歩いていると、後ろから声をかけられた。
振り返って、息をのむ。
「───あなたは……っ」
それは、十数年ぶりの再会だった。
いま思うと、あれはまるで恋のようだった。
当時の父親の顧問弁護士でもあり友人でもあった彼は、しょっちゅう家にやってきていた。
その姿を見れば胸がときめいたし、彼と話すために父親との用事が終わるのを何時間でも待った。
彼の傍にいれば、そこはまるで天国のようだった。
事件や裁判の話を聞きたいのだと言いながら、ただ彼と一緒にいたかっただけのような気もする。
彼の姿を見つめながら、彼のようになりたいと思った。
そう、自分の夢の発端は全て彼だった。
彼に憧れたからこそ、弁護士になろうと思ったのだ。
(やつれた……)
一目見て、そう思った。
人が変わるというのは、こういうことだろう。
面影はあったが、昔のような黒々とした髪や生き生きとした表情は、そこにはなかった。
ただ眼の輝きだけは、変わらないどころか更に増しているように思えた。
言葉を失っている直江に、病気なのだ、とその人は言った。
もうずっと病んでいるのだと。
「おまえはずいぶん、立派になった」
懐かしい声を聞いて、直江はたまらなくなった。
(この人の元で、この人を支えたい)
彼が慈善事業に近いことをやっているのは、風の噂で知っていた。
直江は必死で頼み込んだ。
どんな小さな仕事だってやる。給料など期待できないこともわかっている。
だから、傍に置かせて欲しい、と。
けれど彼は、頑なに拒んだ。
「父上が許すと思ってるのか?」
父なんかには、もう許されなくてもいい。
直江の決意は固かった。
家へと戻った直江は、それでも一週間、父親の元に通い続けた。
それは、直江にとってのけじめのようなものだった。
説得は説得にならず、一方的に話を続けていた直江が最後の最後、別れを告げたときですら、父親は振り向きもしなかった。
が。
「何言ってるの……?」
さすがに彼女は、別れの言葉に振り向いた。
「弁護士になることにした」
「ちょっと待ってよ……っ!何よ……それ……っ!」
元から話し合う気などない直江は、既に荷物もまとめてあった。
冷たいかもしれないが、もう心は決まっている。
背後に彼女の悲鳴を聞きながら、直江は家を、自らの枷となるものを捨てた。
(これで自由だ)
けれど運命の皮肉さを、直江は思い知ることとなる。
直江が、彼から奪うようにしてもらった名刺を頼りに、彼の事務所へとやってくると、そこにいた女性が信じられないことを告げてきた。
「え……?倒れた?」
彼が倒れて、病院へ運ばれたという。
血の気の引いた青い顔で直江が病院へ駆けつけると。
既に彼は、息を引き取った後だった。
(何なのだろう、自分は)
(どういう意味があって生まれ、何故ここで息をしているのだろう)
「直江君?」
病院の廊下で、崩れ落ちるようにして座り込んでいた直江に、知らない男が声をかけてきた。
その人は、色部と名乗った。
彼の長年の友人で、最期も看取ったという。
「生きているのが不思議なくらいだったんだ」
彼の病は、それほどひどいものだったらしい。
「君に伝えておきたいことがある」
まだ、彼の死を受け入れられずにいる直江にしてみれば、遺言と呼ぶにはまだ早い彼の言葉を、色部は言った。
おまえは自分がいなくとも大丈夫。
ひとりで道を歩んでいけるはずだ。
けれど夢を追いすぎて、その他のものを見失うな。
決して、自分の様になってはいけない。
「彼は天涯孤独だったからな。家族を大事にしろと言いたかったんだろう」
色部はそう言ったが、自分は家族といたほうが孤独なのだ。
「彼のようになりたかったんです。人のために力を尽くせるひとに」
本当は、違う。
人の為でなく、彼の為になりたかった。
彼の隣にいるとき、自分は天にも登る気持ちで、孤独であることを忘れられた。
彼は、自分を孤独から救ってくれる唯一の人だった。
「ヒーローというのは、端からみるほどいいものじゃないよ」
色部は言う。彼は孤独という病から逃れるために、人の為に力を尽くすしかなかったのだと。
それでも病からは逃れられなかったのだと。
それを聞いて、気付いてしまった。
彼自身は自分といたって、孤独を忘れることはなかったのだ。
自分が彼の傍にいたかったのは、全ては自分のため。
彼もきっと、それをわかっていたのだろう。
心を、撃ち抜かれる想いがした。
自分本位を思い知らされて、行くあてもない直江は結局、失意のまま家に戻るしかなかった。
見慣れた玄関に入ると、彼女の靴と見知らぬ男の靴が並んでいる。
物音に誘われるまま寝室の扉を開けると、ベッドの上には裸の彼女と、腹違いの弟が抱き合っていた。
こちらに気付いた彼女が、悲鳴をあげる。
唖然とする直江に、弟はとてもおかしげに笑って見せた。
「どうして帰ってきたの」
自分の衣服を掴むと、こう言いながら去っていった。
「ここに兄さんの居場所はないって、まだ気付かないの?」
扉が閉まり、
「彼のほうが、私を大事にしてくれるのよ」
小さな声で言い訳を口にする彼女に、直江は侮蔑の表情を浮かべる。
「社長夫人になりたいだけなんだろう?」
言ったとたん、彼女の平手が直江の頬にとんだ。
「じゃあ、あなたは私の何になるつもりだったの?
私のことなんて何も考えてなかったくせに。
弁護士でも医者でも好きなものになればいい。
けど、断言できる。あなたはずっと、独りよ。
誰かにとっての何かにはなれないわ」
返す言葉もなく立ち尽くす直江を置いて、やはり彼女も、弟と同じように去っていった。
直江は地上に立って、そびえ立つビルを見上げていた。
最上階の社長室があるあたり。
あそこでいつものように椅子に座る男は、もし自分が戻りたいといっても、やっぱり振り向きもしないのだろう。
結局自分は、父親の用意した器に収まって、窮屈がることくらいしかできないのだ。
あてがわれた鳥籠の中から、孤独に、遠い空を見上げる鳥のように。
父親はきっと、それをとうにわかっていたのだ。
(誰かの何かになんて、なりたくはない)
友達にも家族にも恋人にも夫にも、息子にも。
あの孤独に逝ったひとを想えば、独りも怖くはない。
籠の中で、それなりに過ごす方法もある。
高い高いビルの、その向こうには、遠い遠い空。
遠すぎて、その白い色が空の色なのか雲の色なのかもわからない。
鳥籠の鳥はもう、空を飛びたいとも思わない。
羽を広げることもなく天を見上げながら、その一生を狭い鳥籠の中で過ごすのだ。
前編 ≪≪
直江は一礼して、ビルの最上階にある社長室を後にした。
じきに大学を卒業して、春からはこの企業で働くことが決まっている直江だが、今日はこの社長室の革張りの椅子に座っている男に、話があってやってきたのだ。
社長と内定者としてではなく、父と息子として。
けれど、いつもながら父親は、自分の話などには全く聞く耳を持たなかった。
大きくつきたいため息をぐっと飲み込んで、エレベーターに乗り込む。
もともと殆ど会話のない親子関係ではあったが、大学進学と同時に家を出てしまってからは、ますます関係が疎遠になっていた。
今更、"自分は弁護士になりたい"と言ってみたところで、取り合ってもらえないのはわかっていたはずだ。
けれどこれは、小さい頃からの夢だったのだ。
孤立無援。そんな言葉が、今の自分にはぴったりだと思う。
自分の思う通りに動こうとすれば、周囲の人間が足枷となって身動きが取れない。
もがけばもがくほどにそれを痛感し、痛感するほどに抜け出したい、と思った。
今日、この後の予定は特にない。
ということは、あの部屋に戻らなければならない。
まるでホテルの一室のような内装のあの部屋で、彼女はきっと当たり前の顔をして待っているだろう。
恋人のことを考えているというのに、直江の心は曇天のようだ。
彼女には、大学に入ったばかりの頃、親に引き合わされた。
会食とは名ばかりのお見合いの場だった。
一番気に入らないのは、そのことを然したる疑問も持たずに受け入れた当時の自分。
何故自らスネア・トラップに足を入れるような真似をしたのだろう。
気がつくと、もう抜け出すことは不可能だった。
今の部屋も、夜景が気に入ったからと彼女が選んだ。
大学を卒業して、家業を継ぎ、結婚して、家庭を持つ。
自分の行く先は、1時間先も、10年先も、他人に支配されている。
「え?お父様と話したの?」
馬鹿なことを……という顔で、彼女は直江を見た。
「聞いては貰えなかったけどな」
「そう」
今度は明らかに、ほっとした表情を浮かべた。
「いいじゃない。弁護士なんてやるより、会社を継いだほうがずっといいわよ」
何がおかしいのか、笑ってそんなことを言ってくる。
どうして"ずっといい"などと言えるのだろう。
自分が何のために司法試験を受けたと思っているのか。
わざわざ在学中、無茶を承知で受けたのは、そうしないと誰にも認めてもらえないからだ。
自分の夢を。
しかし、試験を受け何とか合格したところで、状況は何も変わらなかった。
他人からは恵まれていると言われることもある。
けれど直江は、これほどうまくいかない人生は他にないだろうと思っていた。
「ちょっと、出てくる」
「え?どこに?」
彼女が、自分も行くと言い出す前に家を飛び出し、車で繁華街へとやってきた。
直江はここが好きだった。
騒がしい通りを歩いていると、まるで自分が罠から解かれたように感じる。
なんのしがらみもない、自由な人生。
あてもなくふらふらと歩いていると、後ろから声をかけられた。
振り返って、息をのむ。
「───あなたは……っ」
それは、十数年ぶりの再会だった。
いま思うと、あれはまるで恋のようだった。
当時の父親の顧問弁護士でもあり友人でもあった彼は、しょっちゅう家にやってきていた。
その姿を見れば胸がときめいたし、彼と話すために父親との用事が終わるのを何時間でも待った。
彼の傍にいれば、そこはまるで天国のようだった。
事件や裁判の話を聞きたいのだと言いながら、ただ彼と一緒にいたかっただけのような気もする。
彼の姿を見つめながら、彼のようになりたいと思った。
そう、自分の夢の発端は全て彼だった。
彼に憧れたからこそ、弁護士になろうと思ったのだ。
(やつれた……)
一目見て、そう思った。
人が変わるというのは、こういうことだろう。
面影はあったが、昔のような黒々とした髪や生き生きとした表情は、そこにはなかった。
ただ眼の輝きだけは、変わらないどころか更に増しているように思えた。
言葉を失っている直江に、病気なのだ、とその人は言った。
もうずっと病んでいるのだと。
「おまえはずいぶん、立派になった」
懐かしい声を聞いて、直江はたまらなくなった。
(この人の元で、この人を支えたい)
彼が慈善事業に近いことをやっているのは、風の噂で知っていた。
直江は必死で頼み込んだ。
どんな小さな仕事だってやる。給料など期待できないこともわかっている。
だから、傍に置かせて欲しい、と。
けれど彼は、頑なに拒んだ。
「父上が許すと思ってるのか?」
父なんかには、もう許されなくてもいい。
直江の決意は固かった。
家へと戻った直江は、それでも一週間、父親の元に通い続けた。
それは、直江にとってのけじめのようなものだった。
説得は説得にならず、一方的に話を続けていた直江が最後の最後、別れを告げたときですら、父親は振り向きもしなかった。
が。
「何言ってるの……?」
さすがに彼女は、別れの言葉に振り向いた。
「弁護士になることにした」
「ちょっと待ってよ……っ!何よ……それ……っ!」
元から話し合う気などない直江は、既に荷物もまとめてあった。
冷たいかもしれないが、もう心は決まっている。
背後に彼女の悲鳴を聞きながら、直江は家を、自らの枷となるものを捨てた。
(これで自由だ)
けれど運命の皮肉さを、直江は思い知ることとなる。
直江が、彼から奪うようにしてもらった名刺を頼りに、彼の事務所へとやってくると、そこにいた女性が信じられないことを告げてきた。
「え……?倒れた?」
彼が倒れて、病院へ運ばれたという。
血の気の引いた青い顔で直江が病院へ駆けつけると。
既に彼は、息を引き取った後だった。
(何なのだろう、自分は)
(どういう意味があって生まれ、何故ここで息をしているのだろう)
「直江君?」
病院の廊下で、崩れ落ちるようにして座り込んでいた直江に、知らない男が声をかけてきた。
その人は、色部と名乗った。
彼の長年の友人で、最期も看取ったという。
「生きているのが不思議なくらいだったんだ」
彼の病は、それほどひどいものだったらしい。
「君に伝えておきたいことがある」
まだ、彼の死を受け入れられずにいる直江にしてみれば、遺言と呼ぶにはまだ早い彼の言葉を、色部は言った。
おまえは自分がいなくとも大丈夫。
ひとりで道を歩んでいけるはずだ。
けれど夢を追いすぎて、その他のものを見失うな。
決して、自分の様になってはいけない。
「彼は天涯孤独だったからな。家族を大事にしろと言いたかったんだろう」
色部はそう言ったが、自分は家族といたほうが孤独なのだ。
「彼のようになりたかったんです。人のために力を尽くせるひとに」
本当は、違う。
人の為でなく、彼の為になりたかった。
彼の隣にいるとき、自分は天にも登る気持ちで、孤独であることを忘れられた。
彼は、自分を孤独から救ってくれる唯一の人だった。
「ヒーローというのは、端からみるほどいいものじゃないよ」
色部は言う。彼は孤独という病から逃れるために、人の為に力を尽くすしかなかったのだと。
それでも病からは逃れられなかったのだと。
それを聞いて、気付いてしまった。
彼自身は自分といたって、孤独を忘れることはなかったのだ。
自分が彼の傍にいたかったのは、全ては自分のため。
彼もきっと、それをわかっていたのだろう。
心を、撃ち抜かれる想いがした。
自分本位を思い知らされて、行くあてもない直江は結局、失意のまま家に戻るしかなかった。
見慣れた玄関に入ると、彼女の靴と見知らぬ男の靴が並んでいる。
物音に誘われるまま寝室の扉を開けると、ベッドの上には裸の彼女と、腹違いの弟が抱き合っていた。
こちらに気付いた彼女が、悲鳴をあげる。
唖然とする直江に、弟はとてもおかしげに笑って見せた。
「どうして帰ってきたの」
自分の衣服を掴むと、こう言いながら去っていった。
「ここに兄さんの居場所はないって、まだ気付かないの?」
扉が閉まり、
「彼のほうが、私を大事にしてくれるのよ」
小さな声で言い訳を口にする彼女に、直江は侮蔑の表情を浮かべる。
「社長夫人になりたいだけなんだろう?」
言ったとたん、彼女の平手が直江の頬にとんだ。
「じゃあ、あなたは私の何になるつもりだったの?
私のことなんて何も考えてなかったくせに。
弁護士でも医者でも好きなものになればいい。
けど、断言できる。あなたはずっと、独りよ。
誰かにとっての何かにはなれないわ」
返す言葉もなく立ち尽くす直江を置いて、やはり彼女も、弟と同じように去っていった。
直江は地上に立って、そびえ立つビルを見上げていた。
最上階の社長室があるあたり。
あそこでいつものように椅子に座る男は、もし自分が戻りたいといっても、やっぱり振り向きもしないのだろう。
結局自分は、父親の用意した器に収まって、窮屈がることくらいしかできないのだ。
あてがわれた鳥籠の中から、孤独に、遠い空を見上げる鳥のように。
父親はきっと、それをとうにわかっていたのだ。
(誰かの何かになんて、なりたくはない)
友達にも家族にも恋人にも夫にも、息子にも。
あの孤独に逝ったひとを想えば、独りも怖くはない。
籠の中で、それなりに過ごす方法もある。
高い高いビルの、その向こうには、遠い遠い空。
遠すぎて、その白い色が空の色なのか雲の色なのかもわからない。
鳥籠の鳥はもう、空を飛びたいとも思わない。
羽を広げることもなく天を見上げながら、その一生を狭い鳥籠の中で過ごすのだ。
前編 ≪≪
夕方、酔った父親から電話があった。
雨が降り出したから、傘を持って迎えに来いと言う。
近所の飲み屋にいるそうだ。
朝早く仕事に行くといって出て行ったはずなのに、今日もまた行かなかったのかもしれない。
いつもの通り美弥を隣の家に預かってもらい、高耶は傘を持って、家を出た。
飲み屋に着いてみると父親は妙に上機嫌で、途中立ち寄ったコンビニでお菓子を買ってくれたりもした。
けれどそれも一時のことで、家に戻って美弥がいないことがわかると、やっぱりまた、荒れだした。
少し前までは、何回殴られたとかどこをどう殴られたとか覚えていたものだけど、今では殴られることが当たり前すぎてもう数えることもしなくなった。痛いとか悔しいとか悲しいとか、そういう感情を出来る限り遮断してやり過ごすしかないのだ。
それでもそろそろ身の危険を感じ始めて、小雨の中、高耶は家を飛び出した。
父親は、外までは追ってこない。
人前で手をあげる勇気がないからだ。
気がつくと、先程父親と立寄ったコンビニへとやってきていた。
おでんのいい匂いがしてきて、夕飯がまだだったことに気付く。
ポケット中には買ってもらったお菓子がそのまま残っていたけれど、とても食べる気にはなれなかった。
(いつも、裏切られる)
悲しみに対する免疫はついたけど、喜びに対する免疫はいつまで経っても身につかない。
ただ殴るだけの父親なら、憎むことも出来るのだ。
不意に何かを褒められたり、父親らしい優しさを見せられると、それが気まぐれだとわかっていてもついつい心への進入を許してしまう。
(早く大人になって、感情をコントロールできるようになりたい)
ポケットのお菓子を握り締めると、コンビニに背を向けて歩き出した。
高耶が歩き出して十数メートルも行ったところで、
どしんっ
背中に衝撃を感じた。
後ろから走ってきた男が、ぶつかってそのまま追い越していったのだ。
男と言っても高耶より少し歳が上かという程度の子供で、高耶のとよく似た黒いダウンジャケットを着込んでいる。
「わりぃっ!」
そう言いながら、彼は足をとめることなく走って行ってしまった。
高耶は特に気にせずに、再び歩き出す。
ところが───。
「きみ、ちょっと来てもらおうか」
いきなり腕を掴まれて、強引に振り向かされた。
「何だよ………っ」
よく見ると、男はコンビニの制服を着ている。
嫌な予感がして、高耶は男を睨み付けた。
「で、名前と親御さんの連絡先は」
「……………」
「いい?万引きは犯罪なんだよ。通報されたいの?」
「………だから、やってねぇって言ってんだろ」
「じゃあっ、このお菓子はなんなのっ!」
ポケットに入っていたお菓子を前に、先程からずっとこの繰り返し。
堂々巡りだ。
「これは買ったんだって」
「でも、レシートがないんでしょ」
「親父が持ってるから」
「じゃあ、早くお父さんを呼ぼうよ」
「……………」
呼べる訳がない。あんな酔っ払い。
途方に暮れた高耶の脳裏に、ひとりの男の顔が浮かんだ。
何かあればと渡された電話番号の書かれた紙は、ずっと持ち歩いていたから、もう覚えてしまっている。
ためらいが無い訳ではなかったけれど、久し振りに話がしたいという想いもあって、
「………わかったよ」
高耶は、その番号を店員に告げた。
男は、両親の離婚の際に担当だった家裁の調査官だった。
複雑な調停だった。
けれど彼は、両親はもちろん高耶と美弥も納得の行く形で、と根気強く話を進めてくれた。
高耶にとって、今や一番信頼できる存在かもしれない。
店員が電話をかけるとすぐに駆けつけてくれた男は、顔を見るなり大丈夫だと頷いてくれた。
「あんたがお父さん?」
舐めるような目つきの店員に、男は名刺を渡す。
「さ、裁判所?なんで……」
うろたえる店員を、男はかなり強気で責めた。
万引きをした証拠はあるのか、高耶を拘束する際に違法行為はなかったか、高耶が無実だとわかったとき、それなりの対応をさせてもらうから、覚悟をしておけ、と。
彼が到着してから約10分。
あっという間に、高耶は開放された。
店を出ると、雨はすっかり止んでいた。
「大丈夫ですか?」
男は心配そうに顔を覗き込んでくる。
「別に。こんなことで傷ついたりしない」
「そうやって、感情を抑えつけるのはよくありませんよ」
肩に手を置かれて、そのあたたかさが心に染み入ってきた。
やっぱり、優しさは拒めない。
「………早く大人になりたい」
大人になればきっと、男の手に縋らずともよくなるはずだ。
「強くなりたい」
俯く高耶に、男は優しく言った。
「早く大人になる必要なんて、ありません」
それに、歳を取ったって何も変わりませんから、と言う。
「もし大人が強く見えるとしたら、それは単なる強がりですよ」
男は微笑っている。
(そんなことない)
少なくとも目の前の男は違う、と高耶には思えた。
「とりあえず、帰りましょうか」
男はそう言うと、停めてあった車を示す。
それに対して、高耶は首を振った。
「………帰るとこなんてない」
男は困ったような顔になる。
「家があるでしょう?」
「あんなの、家とは呼べない。オレにとっては牢獄だ」
例えば、親戚の家だろうと養護施設だろうと、高耶にとっては同じことだ。
居たくもないのに、居なくてはならない場所。
この世の中に、高耶にとって居心地のいい場所なんて、どこにもない。
路上で寝泊りしたほうが、ずっと自由だと思う。
「高耶さん」
男は再び、顔を覗き込んできた。
今は、つらいかもしれない。
あなたは翼を持った鳥と同じだから。
窮屈な鳥籠に入れられてるように思うかもしれない。
でもいつか、必ず羽ばたいていけるから。
自分の好きな場所に、好きなように。
「私の役目はその翼を守ることです」
そう男は言った。
「……キザだな」
「そうですか?」
気障だけど、高耶の顔には笑みが浮かんだ。
「………さんきゅーな」
返事の代わりに、背中をぽんと叩かれた。
今は冷たい鉄格子に囲まれた鳥籠で、凍えていなければならないけど。
いつか、あたたかくて心地のよい、より太陽に近い場所へ。
自分だけの、まだ見ぬ楽園。
そこはいったいどんな場所だろう。
高耶は高い空を見上げて、その場所に想いを馳せた。
≫≫ 後編
雨が降り出したから、傘を持って迎えに来いと言う。
近所の飲み屋にいるそうだ。
朝早く仕事に行くといって出て行ったはずなのに、今日もまた行かなかったのかもしれない。
いつもの通り美弥を隣の家に預かってもらい、高耶は傘を持って、家を出た。
飲み屋に着いてみると父親は妙に上機嫌で、途中立ち寄ったコンビニでお菓子を買ってくれたりもした。
けれどそれも一時のことで、家に戻って美弥がいないことがわかると、やっぱりまた、荒れだした。
少し前までは、何回殴られたとかどこをどう殴られたとか覚えていたものだけど、今では殴られることが当たり前すぎてもう数えることもしなくなった。痛いとか悔しいとか悲しいとか、そういう感情を出来る限り遮断してやり過ごすしかないのだ。
それでもそろそろ身の危険を感じ始めて、小雨の中、高耶は家を飛び出した。
父親は、外までは追ってこない。
人前で手をあげる勇気がないからだ。
気がつくと、先程父親と立寄ったコンビニへとやってきていた。
おでんのいい匂いがしてきて、夕飯がまだだったことに気付く。
ポケット中には買ってもらったお菓子がそのまま残っていたけれど、とても食べる気にはなれなかった。
(いつも、裏切られる)
悲しみに対する免疫はついたけど、喜びに対する免疫はいつまで経っても身につかない。
ただ殴るだけの父親なら、憎むことも出来るのだ。
不意に何かを褒められたり、父親らしい優しさを見せられると、それが気まぐれだとわかっていてもついつい心への進入を許してしまう。
(早く大人になって、感情をコントロールできるようになりたい)
ポケットのお菓子を握り締めると、コンビニに背を向けて歩き出した。
高耶が歩き出して十数メートルも行ったところで、
どしんっ
背中に衝撃を感じた。
後ろから走ってきた男が、ぶつかってそのまま追い越していったのだ。
男と言っても高耶より少し歳が上かという程度の子供で、高耶のとよく似た黒いダウンジャケットを着込んでいる。
「わりぃっ!」
そう言いながら、彼は足をとめることなく走って行ってしまった。
高耶は特に気にせずに、再び歩き出す。
ところが───。
「きみ、ちょっと来てもらおうか」
いきなり腕を掴まれて、強引に振り向かされた。
「何だよ………っ」
よく見ると、男はコンビニの制服を着ている。
嫌な予感がして、高耶は男を睨み付けた。
「で、名前と親御さんの連絡先は」
「……………」
「いい?万引きは犯罪なんだよ。通報されたいの?」
「………だから、やってねぇって言ってんだろ」
「じゃあっ、このお菓子はなんなのっ!」
ポケットに入っていたお菓子を前に、先程からずっとこの繰り返し。
堂々巡りだ。
「これは買ったんだって」
「でも、レシートがないんでしょ」
「親父が持ってるから」
「じゃあ、早くお父さんを呼ぼうよ」
「……………」
呼べる訳がない。あんな酔っ払い。
途方に暮れた高耶の脳裏に、ひとりの男の顔が浮かんだ。
何かあればと渡された電話番号の書かれた紙は、ずっと持ち歩いていたから、もう覚えてしまっている。
ためらいが無い訳ではなかったけれど、久し振りに話がしたいという想いもあって、
「………わかったよ」
高耶は、その番号を店員に告げた。
男は、両親の離婚の際に担当だった家裁の調査官だった。
複雑な調停だった。
けれど彼は、両親はもちろん高耶と美弥も納得の行く形で、と根気強く話を進めてくれた。
高耶にとって、今や一番信頼できる存在かもしれない。
店員が電話をかけるとすぐに駆けつけてくれた男は、顔を見るなり大丈夫だと頷いてくれた。
「あんたがお父さん?」
舐めるような目つきの店員に、男は名刺を渡す。
「さ、裁判所?なんで……」
うろたえる店員を、男はかなり強気で責めた。
万引きをした証拠はあるのか、高耶を拘束する際に違法行為はなかったか、高耶が無実だとわかったとき、それなりの対応をさせてもらうから、覚悟をしておけ、と。
彼が到着してから約10分。
あっという間に、高耶は開放された。
店を出ると、雨はすっかり止んでいた。
「大丈夫ですか?」
男は心配そうに顔を覗き込んでくる。
「別に。こんなことで傷ついたりしない」
「そうやって、感情を抑えつけるのはよくありませんよ」
肩に手を置かれて、そのあたたかさが心に染み入ってきた。
やっぱり、優しさは拒めない。
「………早く大人になりたい」
大人になればきっと、男の手に縋らずともよくなるはずだ。
「強くなりたい」
俯く高耶に、男は優しく言った。
「早く大人になる必要なんて、ありません」
それに、歳を取ったって何も変わりませんから、と言う。
「もし大人が強く見えるとしたら、それは単なる強がりですよ」
男は微笑っている。
(そんなことない)
少なくとも目の前の男は違う、と高耶には思えた。
「とりあえず、帰りましょうか」
男はそう言うと、停めてあった車を示す。
それに対して、高耶は首を振った。
「………帰るとこなんてない」
男は困ったような顔になる。
「家があるでしょう?」
「あんなの、家とは呼べない。オレにとっては牢獄だ」
例えば、親戚の家だろうと養護施設だろうと、高耶にとっては同じことだ。
居たくもないのに、居なくてはならない場所。
この世の中に、高耶にとって居心地のいい場所なんて、どこにもない。
路上で寝泊りしたほうが、ずっと自由だと思う。
「高耶さん」
男は再び、顔を覗き込んできた。
今は、つらいかもしれない。
あなたは翼を持った鳥と同じだから。
窮屈な鳥籠に入れられてるように思うかもしれない。
でもいつか、必ず羽ばたいていけるから。
自分の好きな場所に、好きなように。
「私の役目はその翼を守ることです」
そう男は言った。
「……キザだな」
「そうですか?」
気障だけど、高耶の顔には笑みが浮かんだ。
「………さんきゅーな」
返事の代わりに、背中をぽんと叩かれた。
今は冷たい鉄格子に囲まれた鳥籠で、凍えていなければならないけど。
いつか、あたたかくて心地のよい、より太陽に近い場所へ。
自分だけの、まだ見ぬ楽園。
そこはいったいどんな場所だろう。
高耶は高い空を見上げて、その場所に想いを馳せた。
≫≫ 後編